教えのやさしい解説

大白法 465号
 
常楽我浄(じょうらくがじょう)
 常楽我浄とは、仏の境地(きょうち)に具(そな)わる四つの徳のことで、四徳(しとく)または四徳波羅蜜(はらみつ)ともいいます。
 常(じょう)とは不変(ふへん)常住(じょうじゅう)であることをいい、楽とは生死(しょうじ)の苦しみから脱(だっ)した安楽の境地をいいます。そして、我とはあらゆる妄執(もうしゅう)を離れた自由自在(じざい)の大我(だいが)をいい、浄とは煩悩(ぼんのう)の穢(けが)れがなく清浄(しょうじょう)であることをいいます。
 釈尊在世(ざいせ)の外道(げどう)の教えは、無常であるものを永遠と見、苦を楽と考え、無我を我あり(固定的(こていてき)実体)と考え、不浄なものを清浄(しょうじょう)であると見なす、自己(じこ)と世の中の真相を曲解(きょっかい)した常楽我浄を立てました。これは、因縁の道理に迷(まよ)う顛倒(てんどう)した謬見(びゅうけん)であるため「有為(うい)の四顛倒」といいます。
 釈尊は、このような外道の四顛倒を破(は)すために、不浄・苦・無常・無我の四念処(しねんじょ)の法門を説きました。すなわち、自己の肉身が不浄であると観(かん)じて浄顛倒を破し、財宝等を得てそれを楽と受けるのは誤(あやま)りであり、実は苦を楽と思っているに過(す)ぎないと観じて楽顛倒を破すのです。また、心の無常なることを観じて常顛倒を破し、あらゆるものに実体ありとする著心(じゃくしん)を無我と観じて我顛倒を破すのです。
 しかし、声聞(しょうもん)縁覚(えんがく)の二乗は四念処に執着(しゅうちゃく)したあまり、煩悩を断じ尽(つ)くして心身ともに滅(めっ)した境界こそ涅槃(ねはん)の境界であると捉(とら)えてしまいました。このような大乗の知見(ちけん)を得ることができない二乗(にじょう)の不浄・苦・無常・無我を「無為(むい)の出(しゅつ)顛倒」といいます。
 権(ごん)大乗の教えは、仏が常住であり(久遠実成(じつじょう)より浅く狭(せま)い意味の常住)、涅槃が最高の楽(らく)であると説いて不浄・苦・無常・無我を超越(ちょうえつ)した常楽我浄を明かしています。しかし、その教えには方便(ほうべん)の教理(蔵通別(ぞうつうべつ))が含(ふく)まれているために完全究竟(くきょう)の四徳は顕(あら)われていません。また実(じつ)大乗の法華経迹門(しゃくもん)も、その教理が円教であっても仏が始成正覚(しじょうしょうかく)の仏のゆえに権大乗と同様となってしまうのです。
 これら爾前(にぜん)迹門に対し、法華経本門は久遠常住の仏身(ぶっしん)の上に常楽我浄を説いて四徳を明かしています。すなわち、『寿量品』の「常住此(し)説法」等が常(じょう)の徳、「我此土(がしど)安穏」等が楽の徳、「自我得仏来(とくぶっらい)」等が我の徳、『薬王品』の「如清涼地(にょしょうりょうち)」が浄の徳を明かしているように、本門は在世(ざいせ)の衆生にとって真実の四徳を説いているのです。
 末法(まっぽう)御出現の日蓮大聖人は、その本門の要法(ようぼう)・文底(もんてい)の意義から『御義口伝(おんぎくでん)』に、
 「輔正記(ふしょうき)の九に云はく『経に四導師有(あ)りとは今(いま)四徳を表(ひょう)す。上行は我を表し、無辺行は常を表し、浄行は浄を表し、安立行は楽を表す。有る時には一人(いちにん)に此(こ)の四義を具(ぐ)す』(乃至)此の菩薩は本法(ほんぽう)所持(しょじ)の人(にん)なり。本法とは南無妙法蓮華経なり」(平成新編御書一七六四)
と仰せのように、地涌(じゆ)千界の上首(じょうしゅ)四大(しだい)菩薩を常楽我浄の四徳に配され、さらに「有る時」には「一人(いちにん)」の人格(じんかく)に四徳が具(そな)わることを『輔正記(ふしょうき)』を引用して御教示されています。この「有る時」とは久遠元初即(そく)末法の意であり、「一人」とは三世(さんぜ)常住の導師にして最極(さいごく)究竟(くきょう)の常楽我浄の仏徳(ぶっとく)を御身(おんみ)に具(そな)えられたもう久遠元初の御本仏(ごほんぶつ)日蓮大聖人です。
 南無妙法蓮華経と題目を唱え奉るとき、私たちも四大菩薩の常楽我浄の徳を顕(あら)わして、成仏の境界を得ることができるのです。